
便利になったもので,今ではほとんど全ての情報が掌に乗る小さな機械を通じて手に入る.見知らぬ土地を走る時も,GPS機能が刻々と変わる現在位置を知らせてくれるし,現地のレストラン情報などもあっと言う間である.地元で有名なレストランを検索し,そのままディナーの予約.パソコン画面にへばり付いていた頃が,まるで時代劇のようでもある.
コミュニケーションの形も随分と変化する.「話す」「書く」という基本的な意思疎通手段は廃れ,この小さな機械が意思を持って,他の機械と対話する.町中でふとすれ違う見知らぬ女性.僕らはそのまま行き違いながらも機械同士のランデブーは,彼女とのディナーの予約をすでに僕らのスケジュール表に書き込んでいる.
その晩,テーブルについた僕の前にはジントニック,彼女にはキールが置かれた.ウェイトレスにオーダーを伝える必要は無い.この小さな機械は既に僕のオーダーを決め,店のコンピュータに転送済みである.ある意味,個性とか人格はこの機械に委譲されたと言ってもよい.
彼女との会話が無いわけでは無い.不必要な情報交換を,遅い伝達手段である会話で時間を無駄にする必要が無いということである.僕の機械は既に彼女の情報を取得済みであり,逆に僕のこと,つまり職業,年齢,趣味,食べ物の好み,つまりそういったプロファイルは既に彼女の手中にある.
機械ができないこと,それは「駆け引き」.
情報に基づいて最適な判断を下す.機械は単刀直入な解答を得るに威力を発揮するが,微妙な心理分析はできない.かつてはコミュニケーションと呼ばれた空間が,この隙間にある.
「データを拝見させて頂いたわ」
「うん,スコアはまずまずかな」
機械の画面には,彼女の機械が与えた僕の好感度スコアが表示されている.これはあくまでコンピュータが推定した数値であり,彼女がそこからプラスするかマイナスするか,これが駆け引きである.優雅にスプーンを口へ運ぶ姿に,僕は彼女のスコアに+2した.
「ありがとう」
「食後の期待を込めて,だけどね」
余計な根回しは必要ない.それは機械の仕事.彼らは状況を判断し,高速でデータのやり取りを行う.自分らは心が触れ合うタイミングを計ることに専念すればいい.僕の機械の画面の数値が増加した.
「お互いにもっと知る必要がありそうね」
彼女のクリームブリュレにパリッと亀裂が入り,機械では表示しきれない何かが沁み出そうとしている.
「そうだね」
僕はデザート代わりのウィスキーを飲み干して答えた.僕の機械に表示されている『支払い』ボタンにタッチし,彼女への好意度をさらに+3した.
「ごちそうさま.あなたを知るのは,私の部屋でいいかしら?」
僕が小さくうなずくと,彼女は僕の機械を持って,そのまま一人去っていった.