5月の物語「幽霊」

家賃の安さに釣られて,先月このアパートに越してきたのだが,その破格の家賃の理由を理解するのに時間はかからなかった.俗に言う事故物件である.

寝る前に枕元に置いたはずの携帯がキッチンに移動していたときは,てっきり自分の勘違いだろうと思った.本棚から本が落ちたり夜中にトイレの水が勝手に流れても,単に偶然だろうと思った.最初に異変に気づいたのは,朝起きたときにアパート中の灯が点いていたときだった.幾ら何でも深夜うっかり全部のスイッチを入れたりしない.

異変は次第にエスカレートし,お風呂からお湯が溢れていたり,深夜に突然大音量でCDが鳴り出したり,だんだんと僕の精神も参ってくる.この連休,何とかしてその瞬間を見てやろうと,一晩中部屋を見張ることにした.

部屋を真っ暗にしたまま,些細な変化も見逃すまいと,ベッドの上から部屋の様子を伺う.部屋には凍った時間だけが流れ続けたが,深夜2時を回った瞬間,テーブルの上に置いてあった空の缶ビールがぱたりと倒れて転がった.

「そこに居るんだろう」

僕の声に,彼女がゆっくりと姿を見せた.テーブルの横に,髪の長い痩せた女の子がうつむいて無言で座っている.心臓が止まりそうなほどドキリとしたが,声を振り絞った.

「君は誰?」

彼女は,しばらくの間無言で,やがて少し泣きながら語り始めた.男に裏切られて絶望し,この部屋で自ら命を断ったこと.この部屋に誰も入れまいと,住人を追い出していったこと.

img_2127

それから毎晩,彼女は僕の前に現れ,全てを語り尽くした.生前の彼女に起こったことは,不幸を通り越して恐怖ですらあった.連休が終わって僕は仕事に戻ったが,彼女は消え去るどころか,姿を現す時間を伸ばしていった.

やがてアパートに戻るとすぐに彼女は現れるようになり,時々は夕食を作って,テレビを見ながら待っていることもあった.一年も経つと,ビールにつまみがテーブルの上に散乱している始末である.

運動不足の上に呑んだくれの彼女はみるみるうちに体型を崩し,今ではもう関取である.流石に僕も耐えかねて言った.

「なんだそのだらしない体型は.あの薄幸の美女はどこへいったんだ」
「えー,だって,あたし地縛霊だから,外出できないのよね」
「勝手に太ってるだけなら,除霊して追い出すぞ」
「太ってないわよ.幽霊だもん,体重は今もゼロよ」

FacebooktwittertumblrmailFacebooktwittertumblrmail

「5月の物語「幽霊」」への6件のフィードバック

  1. こんにちは
    ご無沙汰しています。久し振りにブログ巡りして
    5月の物語シリーズも拝読しました。
    LilA管理人さん、やっぱりショートショートの名手ですが、
    今回は えっ怪談? 怖いのだめ~~ 
    でも笑って読み終われてホッとしました。
    重さはゼロのままでも、見た目はちゃんと変えてるとは
    律儀な幽霊だこと。年齢や服装髪型も変えるのかしら。

    1. ポージィさん,このまま怪談で終わろうかとも思ったのですが,そうは問屋がびっくりドンキーとなってしまうのです.服はどうしてるんでしょうね.入らなくなったら,買ってあげてるんでしょうか.それとも着てないとか.

  2. 死後にようやく出会えた優しい男なのね。
    運命を悔やむどころかTVとビールで幸せそう。
    幽霊じゃなくてもドスコイ地縛霊みたいな奥さんいるしねー。
    でも、幽霊の定番てなんで女なの?

    1. Chieさん,いっそ男も地縛霊にしちゃおうかと思ったんですが,そうすると落とし所が難しくなっちゃって.
      幽霊の定番がどうして女かって?そんなの円山応挙に聞いてください.

  3. 前日のコメント返しが伏線となるあたりはさすがの構成力ですね。エネルギー保存の法則から考えると、体重が増えない分、どこかにそれがあるわけで、ということは幽霊の代謝産物を研究する絶好の機会となるわけなのかな。臭うとやですね。

    1. misssyさん,質量が増えなくても場のエネルギーが増加すれば大丈夫です.ポテンシャルエネルギーの増加分が mc^2に等しいと仮定すれば,霊体を用いて莫大なるエネルギーを保存できる可能性があります.

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください